第31番 善久寺

【歴史・由来】

大和時代に始まった両面宿儺(りょうめんすくな)開基の寺と伝えられ、山嶽信仰の盛んな時代には、行者たちの参籠の寺だったようです。弘法大師が巡錫し、両面宿儺に菩薩の位を授け、約1000年前に、慧心僧都が「両面宿儺が十一面観音の化身」と聞き、十一面観音像を刻んで納めたとも言われています。 中興開山は高山素玄寺三世の楽翁秀村和尚で、曹洞宗となったのは寛永年間。楽翁秀村和尚は神岡の光円寺、宮川の観音寺などを開いています。寛永20(1643)年に入寂しました。 両面宿儺は、日本書紀に登場します。仁徳天皇のころ飛騨国に宿儺という人がいたという内容で宿儺の体は1つで顔が2つあり、顔は背きあって、いただき(頭)は1つで、うなじは無く、膝はあるけれども、ひかがみ(膝の後のくぼんだところ)は無かったという風体だったと、日本書紀には記述されています。 力強く敏捷で、左と右に剣をいて、四つの手で弓矢を使ったといいます。「皇命に従わず、人民を略奪するのを楽しみとした」(『日本書紀』講談社学術文庫、宇治谷孟著)などと悪く記述されていますが、これは当時の中央から見て反抗的だった飛騨への敵対心の表れです。地元では両面宿儺という伝説上の人物は崇拝されていたのです。仏教でも特に丹生川地域を中心に、地元の英雄として尊重しています。朝廷に従わない飛騨の豪族や人民が、あまりにも手ごわい存在だったので、日本書紀では前記のように、怪物として描いたのだと考えられます。和珥(わに)臣の先祖の難波根子武振熊を遣わして殺させたとして話は終わります。 高山市の桜山八幡宮は、同社を武振熊が興したとしています。飛騨では、両面宿儺という地元の英雄と、敵対関係にあった人物の両方を奉る場所が、別々にあるのです。 梅原猛氏は近年の著作で、日本の神社の伝統として、征服した側を大きく祀ることを挙げていますので、それに当てはまる事例かもしれません。 宿儺の名は近年、地域で「宿儺まつり」「宿儺の湯」などとして残されました。丹生川の千光寺、高山の相応院で「宿儺」と「桜山八幡宮」が登場しますので、この項を参照してください。

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概要

第31番 普門山 善久寺(ぜんきゅうじ)曹洞宗

◇本 尊 釈迦牟尼仏

◇観 音 十一面観世音菩薩

◇円空仏 迦楼羅像

所在地

〒506-2256 高山市丹生川町日面788

tel. 0577(79)2148 fax.0577(79)2148

納経受所

玄関又は本堂前

拝観料

なし

駐車場

あり・境内手前に普通乗用車20台・マイクロバス10台

アクセス

30番 慈雲寺 → 31番 善久寺

◎距離:約4.5km

◎車で約5分

年中行事

転読大般若会/1月2日

春の彼岸会/春

盆供養/夏

秋の彼岸会/秋

開山忌塔婆供養/秋


■ご開帳 7年ごと