第6番 宗猷寺
【歴史・由来】
寛永9(1632)年、金森氏三代の重頼と重勝の兄弟が、父出雲守可重の菩提のために建立しました。山号と寺の名は重頼の真龍院殿と重勝の徽雲宗猷から採っています。開山は妙心寺前住、南叟宗安和尚です。飛騨安国寺を再興した人です。威容を誇る石垣や寺地は飛騨代官、長谷川忠崇の知遇を得て備わりました。忠崇の父忠国の位牌があります。庫裏は文化14(1817)年、本堂は文政4(1820)年に再建されました。観音堂に安置されている聖観音は、大威徳寺の廃寺で薬師、地蔵菩薩とともに遷座されたものです。大威徳寺は下呂市竹原に遺跡があり、美濃まで及ぶ勢力があった寺院で、近年も同市が専門員を配置して調査を進めています。なぞが多く「幻の寺」とも呼ばれています。
宝暦8(1758)年に、白隠禅師が碧巌録を講じて、僧尼が300人も集まった記録があります。
神岡上宝方面などのいくつもの寺が末寺だった記録もあります。三十三観音霊場にも例が複数あり、そのことに触れていますので、参考にしてください。
境内には飛騨郡代小野高福の墓があります。明治天皇の侍従を務めた山岡鉄舟の父です。鉄舟は幼名鉄太郎、かなりの腕白だったようで、宗猷寺の鐘楼の鐘を下ろそうとしたという伝説があります。
鉄舟は禅学をここで修めました。後に達筆を慈善活動で生かしたようですが、書は高山時代に岩佐一亭から学んでいます。両親を高山で亡くした鉄舟は、六男の長男でした。16歳のとき、弟たちを引き連れ、山口の美女峠を越えて高山を離れ、江戸街道を江戸へ向かいました。幕末には、徳川慶喜の意向で西郷隆盛と会って、江戸城の無血開城に貢献しました。
墓といえば、裏山の墓地には全国的にも珍しい「木地師」の集団墓地があります。全国を渡った特別な職人たちです。墓石群が残るのは、木の国ならではです。
宗猷寺と関連した有名人は、近代では、明治32(1899)年4月に12歳で預けられた木宮泰彦がいます。当時は僧の卵が何人かいて、作家の江馬修が、宗猷寺を交流の場としていたことを、後に回顧しています。木宮は現在の浜松市の出身で、龍雲寺に四男の二男として生まれました。旧制斐太中学を卒業して一高へ進み旧制高校の教授などを務めたあと、昭和22(1947)年に常葉学園を創立しました。今は大学まで有する組織に発展しています。
概要 |
第6番 真龍山 宗猷寺(そうゆうじ)臨済宗妙心寺派 |
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所在地 |
〒506-0834 高山市宗猷寺町218 tel. 0577(32)1958 fax.0577(32)2320 |
納経受所 |
玄関 |
拝観料 |
なし |
駐車場 |
門前横に乗用車25台 |
アクセス |
5番 善応寺 → 6番 宗猷寺 ◎距離:約200m ◎徒歩で約2分 |
年中行事 |
大般若/1月1日~3日 大黒天法要/2月11日 開山忌・施餓鬼会/7月末 観音様法要/11月18日 |