第7番 清伝寺

【歴史・由来】

清伝寺は高山市の城山の東部にあります。江名子(えなこ)町の入り口です。江名子という地名は「荏野の奥」がなまった名です。
実際に日本の高度経済成長前までは田園地帯でしたが、急速に宅地化が進んで、現在では高山市内で最も人口増加が激しい地域となりました。
清伝寺は天平神護元(765)年、越の泰澄禅師が加賀白山山麓に一寺を創建したのが始まりと伝えられます。
また、清伝寺と言う名前は、清寧天皇(480)の「清」と、再興した成伝律師の「伝」をいただいて付けられました。
永亨5(1433)年に京都醍醐寺末の、無量寿院内賢誉僧正の高弟子、成伝律師が再興しました。後に三宝院宮末となります。その後加賀藩主前田家の祈願所となりました。
前田利次が富山藩に分家したとき、藩主に従って移り、代々藩主の祈願所として栄えましたが、明治の廃仏毀釈のあと、維持が困難になりました。
当時、現在の富山市長柄町にありましたが、当山第十九世弘道和尚が大正7 (1918)年、大野郡大名田町江名子瀬戸へ移ることを願い出て、同9年2月に移転を終えました。瀬戸とは瀬戸の人加藤源十郎が古く窯を開いた場所で、加藤が技術を伝えたといわれる江名子バンドリ(わら製雨具)の発祥地です。
この年は真言宗にとって「弘法大師高野山開創一千年百年法会」に当たり、廃仏毀釈で辛酸をなめた寺院の多くが復興などに努めたのです。富山藩でも「一宗一寺」という令(合寺令)が出て、清伝寺も移転せざるをえませんでした。
同15年11月に本堂の改築を申請しましたが、境内地の不備により、昭和5(1930)年、字石切場へ移転することを願い出、同年7月31日に移転し宮大工、九代阪下甚吉により間口10間奥行9間の本堂が建立されました。
本堂外陣横の2間は「鳴き龍の間」と呼ばれ、天井屋根裏につり木の代わりに針金を使用して、手をたたくと、天井と床とで音が共鳴して「ビン、ビン」と聞こえる仕組みになっています。
安置する本尊十一面観自在菩薩は、泰澄禅師が彫ったと伝えられ、眼光が鋭く、斜め左右どちらから拝んでも、常に拝む人の方を向いている眼光炯炯たるまなこを持つ観音さまと言われています。
秘仏の大日如来座像は、美濃国苗木藩三代遠山友貞の念持仏です。神仏分離の際に廃仏されたものが、篤信者によって寄進されました。

1
2
3
4
5
6
7
8
9
1
2
3
4
5
6
7
8
9
御詠歌

純白 じゅんぱく 白山麓 はくさんろく 鎮座 ちんざ する

眼光 がんこう けいけい 錦胎佛 きんたいほとけ

概要

第7番 神護山 清伝寺(せいでんじ)高野山真言宗
◇本 尊 十一面観自在菩薩
◇観 音 十一面観自在菩薩
◇円空仏 観音像

所在地

〒506-0818 高山市江名子町561の1

tel. 0577(33)0730 fax.0577(33)0730

納経受所

玄関

拝観料

なし

駐車場

境内に乗用車5台

Eメール

amh0mani@aqua.ocn.ne.jp

アクセス

6番 宗猷寺 → 7番 清伝寺

◎距離:約400m

◎徒歩で約5分

年中行事

修正会/1月1日

初護摩供/1月15日

弘法大師御影供法要/7月

十一面観音息災護摩/毎月18日


■新しい行事

仏教いろいろ講座/毎月1回