第2番 相応院
【歴史・由来】
相応院が秋の高山祭で有名な桜山八幡宮の近くにあることは、歴史的な背景によります。
相応院は平安時代の中ごろ(935―941)に、高野山金剛峯寺の座主で京都東寺長者だった済高僧正(大徳)が高野山に建立しました。江戸時代に飛騨を治めた金森家の高野山での菩提寺だったのです。済高大徳は京都勧修寺の学僧で『本朝高僧伝』にも記されています。承平5(935)年に小僧都になり、11月25日に91歳で入寂しています。現在の場所は、桜山八幡宮の別当寺でもあった桜山長久寺の所在地でしたが、明治の廃仏毀釈によって廃寺になりました。
明治25(1892)年、相応院が高野山から移りました。当時、住職と神職を兼ねていた桜山識雄和尚が、寺号と聖観音などを譲り受けて、現在地へ本堂を建てたのでした。裏の弘法山には弘法大師修行像、観音堂には西国三十三観音・十三仏も祀られています。その前の同14年、識雄和尚は長久寺の再興を図り、桜山八幡神社の氏子や秋葉講員らの助力で、堂宇を建てたのですが、長久寺を名乗ることはできませんでした。そこで、高野山では焼失したままになっていた相応院の寺号を譲り受けました。
現在の相応院には、高野山の相応院に高山城主、金森長近(ながちか)が奉納した雲上阿弥陀三尊像と元来、長久寺にあった本尊、不動明王三尊像がともに安置されています。
相応院がある場所は高山の市街地の北東の鬼門にあたるため、不動明王と十一面千手千眼観音が安置され、高山の鬼門を封じています。聖観音像は江戸時代の作とされています。廃仏毀釈をくぐりぬけた歓喜天もお祀りしてあります。
円空仏は3体あり、うち1体には釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、不動明王、毘沙門天の五仏を表す梵字が書いてあり、全国的に珍しく、貴重だと思われます。民話『串柿仙人』のモデルになった喚応是誰(かんのう・ぜすい)の像も寺宝の1つです。文政11(1828)年、桐生の万人講に、豪商谷屋(日下部家)の援助を受けて茶の接待所を設け、越中街道を通る人を休ませました。そのとき使った茶釜も残っていますが、いずれも高山市郷土館で保管されています。
概要 |
第2番 桜雲山 相応院(そうおういん) 高野山真言宗 |
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所在地 |
〒506-0858 高山市桜町149 tel. 0577(33)9620 fax.0577(33)5485 |
納経受所 |
御朱印所(本堂横) |
拝観料 |
なし |
駐車場 |
高山別院駐車場へ |
Eメール |
sououin@mbr.nifty.com |
アクセス |
1番 国分寺 → 2番 相応院 ◎距離:約2km ◎車で約5分 |
年中行事 |
修正会/1月1日
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